先日友人と飲んでいたとき、こんな話を聞いた。
「遺伝子の水平伝播って知ってる?」
いや、知らん。
「普通、遺伝子というのは、生殖を通じて親世代が子世代に受け継いでいくものだよね。これを垂直伝播とすると、水平伝播とでも呼ぶべき現象がある。それは、同世代間での遺伝子のやりとりのこと。よく例としてあげられるのが、大腸菌の薬剤耐性遺伝子。最初は抗生剤でバタバタとやられちゃうけど、たまたま抗生剤に負けない性質(薬剤耐性遺伝子)を持った個体が生き残り、その個体が他の個体にその遺伝子を受け渡すことで、集団の全滅が回避できるという。
プラスミドを通じて同世代間にすばやく性質が広がっていく。ラブ注入💗みたいな感じで、遺伝情報が注入されるわけです」
ふむふむ。なるほど。メンデル遺伝ではない、別のタイプの遺伝形式が存在するということやね。
「そう。この水平伝播っていう現象、大腸菌とか原始的な生物だけではなくて、人間とかの高等生物でもあると言われてる。
たとえば、犬のブリーダー。血統書付きの”お嬢様”みたいなメス犬がいるとして、でもこの犬がどこかの野良犬と交わってしまったとしたら、たとえ妊娠してなくても、価値が下がってしまうんだって」
妊娠してないのに?
「そう。それは、ブリーダーの人たちが、遺伝子の水平伝播のことを経験的に知っているから」
妊娠していなくても、その野良犬の何らかの遺伝子成分が、お嬢様犬の遺伝子に影響してるってこと?
「そう。だから、純血を保ちたいブリーダーにとっては、よくわからない雑種のオス犬と一回交わってしまっては、遺伝子が、いわば”汚れた”わけだから、価値が下がってしまう」
それ、すごい話やね。
「同じことは、競走馬の世界でも言われてる。1回の種付けで何百万円というお金が動く世界だから、彼らそういうことにものすごくシビアだよ」
それさ、逆に価値が上がることもあるんちゃうの?あるメスの馬に種付けするとして、以前に賞金レースで勝ちまくった伝説の名馬みたいなオスと1回交わってたら、その雌馬の価値が上がるとか。
「そういうこともあるだろうね」
真偽は分からない。酒の席でしゃべっただけの与太話である。ただ、心にけっこう引っかかってた。それで調べてみると、確かにいろいろ情報が出てきた。
たとえば、
この論文『セックスで遺伝子を治す』て、タイトルがすごくない?(笑)
内容的には「生物の多様性は他個体のゲノムからDNAを獲得する能力によって促進された」とか超まじめな話です。
ゲノム分析によると、犬の唾液には抗菌薬耐性遺伝子(ARG)の転移を行う細菌が数多く含まれている。犬にとって、主人の顔をなめるのは挨拶のようなものだから、その唾液を通じてARGを含む細菌が飼い主に移るかもしれませんよ、というのがこの論文の主旨です。
この移された菌のせいで常在菌叢が変化して「初めて使う抗生剤なのに効かない」なんてことが起こるかもしれない。
家に帰るたびに、僕はロンに襲われて「顔面なめまわしの刑」を受けるので、ロンの唾液にARGを持つ細菌が含まれているなら、その細菌は僕の体内に取り込まれているはずです。幸い、僕はロンに抗生剤を投与したことがない(そもそも「薬」と呼ばれるものは一切ロンに使ったことがない)ので、僕の体内にはロン由来の抗生剤耐性細菌はいないと思う。
しかし、妻由来のその手の菌が来ている可能性はあると思う。僕と出会う前、妻は西洋医学を盲信していて、ちょっとした不調ですぐ病院に行ったし医者から出された薬は疑いもなく何でも飲んだので。
というか、そういう可能性を疑い始めれば、これまで僕がエッチしたすべての異性が容疑者になってくるし、セックスという粘膜の接触だけではなくて犬から顔をベロベロなめられるという”濃厚接触”でも水平伝播が起こるのだから、たとえば柔道とか相撲で相手の汗がべったり着いたときに何かもらってるかもしれない。
それに、上記の抗生剤耐性細菌の例はありがたくないことだけれども、そもそも遺伝子の水平伝播という現象は、集団にとって基本的に好ましいことだと思うんですね。ある種の病気にかかりにくくなる遺伝子とか何らかの優れた性質が同世代間にすばやく広がるのは、集団の生存率を上げるとか何らかのメリットがあったはずです。生存にとって不利な現象であれば、原核生物から人間のような高等生物まで、すべての生物で見られるなんてことにはならないだろうから。
しかし、こんな現象が存在すると知ってしまったら、”濃厚接触”に対する認識が変わりませんか?
たとえばセックスについて、「避妊さえしとけば大丈夫」ってことじゃないということですよ。コンドームとかピルで避妊(つまり遺伝子の垂直伝播を防ぐこと)は可能だろう。でも、水平伝播で相手の何らかの遺伝情報をもらってしまうし、逆に、相手にも与えることになる。
だから、キスやセックスは「この人のすべてが欲しい!」と思える相手とだけしましょうね(笑)
その知識を得ることで、世界に対する見方自体がちょっと変化する。
これが、僕の中で「いい知識」の定義です。こういう知識がひとつずつ増えていくことで、人生の質も変わってくるんだよね。
ここで、以前にも触れたけど、千島学説について再掲したい。
千島学説というのは1963年に千島喜久男博士によって提唱された説で、たとえば「赤血球は様々な体細胞の母体である(赤血球一元論)」「病原体の自然発生説」「腸造血説」「獲得形質は遺伝する」などと主張していることから、当時異端視されたのはもちろん、今も学界主流派から無視され続けている。
しかし最近、千島学説の正当性裏付ける研究が相次いでいる。
線虫をストレス下で飼育したところ、生存力が向上した。その次世代をストレスのない状態で飼育したものの、親世代が獲得した生存力の向上がそのまま保たれていた。つまり、生存力の向上という獲得形質が次世代に受け継がれたことになる。
あるいは、ネズミに匂い刺激と同時に痛みを与えることを繰り返すと、匂い刺激がトリガーとなって不安反応が見られるようになる(条件付け)。このネズミから生まれた次世代に匂い刺激を与えたところ、親世代と同様、不安反応が観察された。つまり、「匂い刺激に対する恐怖」という獲得形質が次世代に受け継がれたということです。
すごく簡単な実験だけど、説得力がある。線虫で見られ、マウスでも見られたということは、恐らく人間でも同様の現象が見られるはずです。スポーツが好きな親からは運動好きの子供が生まれるし、読書好きの親の子供が本の虫になる。
逆に、何かへの憎悪や嫌悪も受け継がれるんじゃないかな。「勉強が大の苦手で、劣等感を植え付けられた」という苦い記憶が親にあれば、子供はそういう記憶をも受け継ぎ、自然と勉強嫌いになる。
遺伝学にはメンデル遺伝だけでは説明がつかない現象が極めて多いことは生物学者のあいだではよく知られているけれども、千島学説はその溝を埋めてくれるんじゃないかな。
現在の遺伝学はメンデル遺伝学が基本です。高校で生物を履修した人は、優性の法則、分離の法則、独立の法則というのを習っただろう。
しかし、メンデルの研究を追試しても、メンデルが導き出したようなきれいな結果が出ないということは当時から言われていた。つまり、メンデル遺伝学というのは根本からして疑問だらけなんですね。
遺伝子の水平伝播とか獲得形質の遺伝とか、既存の学説では説明できない現象があるおかげで、その学問領域自体が鍛えられます。つまり、説明のつかない現象を何とか説明しようとして、より包括的な理論が作られていく。こういう学問の進化(深化)はとてもおもしろいです。