プロ棋士とAI

深浦康市九段は藤井聡太六冠に2勝以上勝ち越している(3勝1敗)ことから、『地球代表』の異名を持つ。どういうことかというと、「藤井聡太の強さは異次元だから、彼はもはや『将棋星人』だけど、そんな将棋星人を相手に見事に勝ち越している深浦康市は我々地球の代表だ」という、深浦九段へのリスペクトとユーモアが入り混じった異名なんですね。
その深浦九段が、「なぜ藤井さんに勝てるのか」と記者に聞かれて、こう答えた。「藤井さんが強いから勝てました」
どういうことか?意味が分かりませんね。将棋に限らず、勝負事は強いほうが勝つものです。それなのに、相手が強いから勝てただなんて、意味が通らない。
https://bungeishunju.com/n/nb9ae76b9248a

でもこの記事を読んで、僕は深く納得しました。そして、推理小説のようにおもしろいと思いました。内容をざっとまとめると、
「NHK杯での対局前、私は周到に作戦を練りました。この対局では私は主導権を握りやすい先手番だったので、自分が得意な「雁木」と呼ばれる戦法をぶつけてみようと決めました。(中略)
事前にAIを使って「雁木」戦法の展開をかなり先まで研究しましたが、実際の対局も想定通りに進みました。だから序盤から藤井さんが持ち時間を使ったのに対して、私はほとんど時間をかけずに指し進めることができました。
中盤、私は藤井さんの陣地に一気に攻め込んだのですが、このとき私は、将棋界では指されたことのない新しい手をぶつけました。過去に指された形だと、藤井さんも想定していると思ったからです。
その新しい手への対応には驚いた。藤井さんも初めて見る形のはずですが、そこから30手ほど、私の事前研究のときにAIが示した最善手を同じ手を指してきたのです。短い対局時間の中でAIと同じように先を読み、正解を導き出したわけです。完全に私の想定通りに展開するものですから、心の中で「これはすごい」と感嘆していました。(中略)
藤井さんが最善の手を指し続けたので、事前研究の成果もあって、それに私は的確に対応することができました。一方、藤井さんは次第に持ち時間がなくなり、そこで生じたスキを私がついて、勝利することができた。藤井さんが最善手を続けたからこそ、私が勝てたと言えるでしょう」

僕はこの話を「読み物としておもしろい」と思ったけれども、現役のプロ棋士の受け取り方は全然違うだろう。今やプロ棋士が束になってかかってもAIに勝てない。こんな時代にプロ棋士として生きることの意味は何か?すべてのプロ棋士がこの問いに直前せざるを得ないわけです。
光栄なことに、個人的に交流を持たせてもらっているプロ棋士の先生がいるので、この点について聞いてみました。

今泉健司さん
「渡辺明名人が『今の将棋は記憶芸だ』という意味のことを言っていました。『対局は事前のAI研究のお披露目会だ』と。本当、私もその通りだと思います。
将棋の技術面については、AIの功績は認めないわけにはいきません。私が奨励会員だった30年前と比べると、AIの登場で将棋の技術が格段に上がった。それは間違いありません。
序盤はもちろん、中盤の変化もAIを使って細かく研究されています。特に最近の若手棋士なんかはものすごい記憶力で、たくさんの枝分かれを記憶している。だから、あんなワケの分からない手順をものすごいスピードで指し合えるわけです。
すごいことやとは思うよ。でも、何のための将棋なんかな?
AIの指示通りに指す将棋は、自分が子供の頃夢中になって指してた将棋とは何か別物のような気がします。そういうのを思うと、どうしても何か、やるせない気持ちになります。
別に格好をつけるわけではないけど、『将棋を通じてみんなの笑顔のもとになりたい』ということを私は言い続けています。プロ棋士になった当初からずっと言っています。だから私は、全国各地の将棋大会なんかに行くのが大好きなんです。大盤解説や指導対局を通じて、将棋の魅力をみんなに直接伝えられる機会だから。
たとえば、私、歴史が好きだけど、テストで点数をとるための歴史の授業ばかり聞いていれば、それはうんざりしますよ。歴史のことを嫌いになるかもしれない。歴史は、本来もっとおもしろいんです。それと同じことが将棋界にも起こっていると感じます。ひたすら勝つためだけの、面白みのない将棋が横行しています。
ただ、AI研究をやること自体はもちろん否定しません。我々プロ棋士は、勝つために指しています。そことのギャップに悩みはあります」

技術の進歩を拒むことはできない。となれば、いっそAIをとことん活用し、その上で相手の裏をかく。それぐらいのことをしないと、もはや勝てない。AI以前と以後で、勝負の質がすっかり変わってしまったわけです。
AI時代に生きるプロ棋士の大変さ。上記の話には重いテーマが隠れているようです。
プロ棋士は勝負師です。だから、まず、勝つこと。これが至上命題。しかし同時に、今泉さんは「エンターテイナーでもありたい」と思っている。将棋を通じて人々を楽しませたい。笑顔にしたい。熱い棋譜を残して、将棋のすばらしさを伝えたい。
しかし行き過ぎたAI研究は、将棋ファンを置き去りにしていると思う。ファンは別にそういうのが見たいわけじゃないから。
今泉さん、「プロ棋士を目指して大阪に来た十代の頃、将棋の修行にいそしみながらも、ずっと音楽を聴いていました。尾崎豊、長渕剛、中島みゆき。何度も聞きました。歌詞もいまだに覚えていますよ。来世も人として生まれてくるなら歌手になりたい」
ちょっとプロ棋士の記憶力を試してみようといういたずら心で、聞いてみた。「中島みゆきの『ファイト』、歌えますか?」
すぐに口ずさんでくれた。歌詞も見事、丸々暗記していた。
「すごいですね」
「いや、こういうのを覚えるぐらいなら、定跡の1個でも覚えておけばもっと強くなっていたのに(笑)」
来世はプロ棋士ではなく歌手になりたい、と。半分冗談ぽいけど、半分は本気だと思う。根っこがエンターテイナーなんですね。人を楽しませたい。違うのは手段だけ。

タイトルとURLをコピーしました