素敵なプレゼントを贈るには

オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』、知ってますか?
ある貧しい夫婦がいた。妻は自慢の美しい髪をばっさりと切り、それを売って金を工面しプラチナの時計鎖を買った。もちろん、夫のためである。夫には何より大切にしている宝物がある。夫の祖父の代から受け継がれた懐中時計だ。妻はそれにふさわしい時計鎖を、夫へのクリスマスプレゼントとして用意したのだった。
一方、夫が妻のために買ったプレゼントは、髪留めだった。亀甲でできた宝石の縁取りのあるきらびやかな櫛で、妻の髪の美しさをさらに引き立てるはずのものだった。裕福ではない彼にとって、それを購入するのは簡単なことではなかった。そこで彼は、祖父から受け継いだ懐中時計を質屋に売り、髪留め購入の資金に充てた。
妻の美しい髪。夫の懐中時計。
夫婦がお互いを思うばかりに、家の二つの宝が台無しになってしまった。しかも悲しいことに、お互いにもはや無用なプレゼントを贈り合った格好である。ショートカットになった妻にとって髪留めは不要であり、先祖代々の懐中時計を売り払った夫にとって時計鎖は不要である。しかし、不要なものを贈り合ったにもかかわらず、夫婦の絆はかつてないほどに深くなりました、という話。

こんなに美しいすれ違いは小説だからこそで、現実にはなかなかないだろうけれど、ここには教訓がある。それは、プレゼントのあるべき形についてである。つまり、贈り物は、どんなものをあげれば喜ぶだろう、どんなものをあげればこの人の魅力が高まるだろう、などと相手のことを深く考えてするべき、ということだ。
夫は懐中時計を誇りに思っている。その誇りを一層高めるものは何か。そこから妻が考えたのが、プラチナの時計鎖だった。
妻の美しい髪。その美しさをさらに引き立てるものは何か、と夫が思いを馳せたときに出てきたのが、髪留めだった。
そういう思いやりのこもった贈り物は、決して失敗しない。万が一、上記のようなすれ違いが起こったとしても、そのすれ違いゆえに、お互いの愛が深まることになる。

昔、伊集院光がラジオでこんなことを話していたことが印象に残っている。うろ覚えだけど、ざっと書くと、
ある後輩芸人から誕生日プレゼントとして、びわゼリーをもらった。「なんでびわゼリーなの?」「いえ、なんでってこともないですけど」
伊集院、この答えにキレた。
あのさ、お前仮にも芸人なんだろ。何かおもしろい意図があるとか、ネタとしての伏線があるとかなら分かるよ。あるいは俺がびわゼリーが好きだとして、それをどこかで聞きつけて特別に用意したとか、そういうのなら分かる。でも何の考えもなく、ただ何となく、びわゼリー。デブだから甘いもん贈っときゃ喜ぶだろう、程度の考えだろう。ふざけるなよ。
なるほど、と思った。
僕は貧乏性だから、もらえるものは何でも「ありがとう」でもらっちゃうんだけど(笑)、こういう姿勢って、考えてみれば節操がないよね。何を贈られたかによって、喜ばない場合もあり得るし、何なら不快感を表明したりキレたりする。これはちょっとしたダンディズムだね。
ものをもらって、条件反射的に「ありがとう」の一択では、何というか、贈ったほうも鍛えられないと思う。「ものをくれてやったんだから喜べ」は、むしろ贈る側の傲慢だとも言える。贈る側にも多少の緊張感があったほうがいい。
プレゼントをあげるというのは、ものをあげるんじゃない。気持ちをあげることなんだ。だから、明らかに気持ちがこもってないものをもらったときには、不快になってもいいのだ、ということ。
これはちょっとした発見だと思った。
伊集院はもともと三遊亭円楽の弟子で、落語界は上下関係、師弟関係が超絶厳しい世界だから、たとえば師匠に何か贈り物をするときには様々なセンスや気配りが必要だった。ものをひとつ贈るにも、喜ばせるだけの気遣いを見せろ、と。そういう世界で鍛えられた経験って、社会に出てからの人付き合いなんかにすごく生きそうだ。

最近流行りのchatGTPに聞いてみた。

なかなかいい線いってる。
そう、まず第一に、相手の好みを考える。それが原則だけど、意外なところで、3.手作りの贈り物をする、というのもおもしろい。しかし、「手編みのマフラー」というのは昭和の発想やねぇ(笑)AIはどこのデータを学習してこんな答え言うのかな。完全に間違いとは言わないけど、そんなに親しくないのにいきなり手編みのマフラー贈られたら、男は確実に引きますよ。

序破急って言葉があるけど、相手のことを知り尽くし考え抜いたうえで、まったく相手の趣味嗜好と別のものを贈る、という高等戦術もあっていいと思う。
誰だったか、「あるプレゼントをもらったとき、特に自分の趣味ではなかったはずなんだけど、『ああそうか、俺はこういうのが好きだったのか』と逆に気付かされるようなもの、あれはうれしいですね」と言ってて、ハッとした。なるほど、そういうプレゼントもあるんだなと。
以下、僕が最近もらってうれしかったプレゼントを紹介します。

うつみんのところで仕事をしているイチコさんが「あっちゃん、これ、沖縄のプレゼント」といって、豆腐ようをくれた。
豆腐よう?何それ?全然知らなかったけど、食べてみるとうまかった。珍味だからちょっとずつ食べるものだけど、あまりにもうまいので、ばくばく食べてしまった。
調べてみると、島豆腐を麹で発酵させたものだという。豆腐を発酵、っておもしろいね。「豆腐と納豆は逆」という俗説を知っていますか?「納豆は大豆を腐らせたもの、豆腐は大豆を煮て潰して豆乳にして箱に納めたもの、つまり、納豆こそ豆腐であり、豆腐こそ納豆だった」という話。もちろんこれは事実ではないけれども、豆腐という字面に引っ張られてしまうから、「豆腐を発酵させる」という表現が新鮮な感じがする。
しかしあまりのおいしいので、イチコさんからもらったものを食べきった後、自分でネットで買った。以来、ときどき思い出しては注文している。

アサイゲルマニウムの代理店『ビレモ』の永田さんが、あるとき「どうぞ」とカラスミをくれた。
カラスミはボラの卵巣の塩漬けで、昔から珍味として有名。有名なだけあって、食べてみると確かにうまい。うまいから、止まらなくなる。珍味だから、「これで腹をいっぱいにする」というようなものでないんだけど、止まらない。
うまさを実感して以後、これも僕の『お気に入り』リストに加わることになった。

昔、健康雑誌『安心』に寄稿していたことがある。ある編集者さんが僕のブログを見て、「何か書いてもらえませんか」とオファーをくれたのだ。僕としてはこんなに光栄なことはない。連載は1年くらい続いたと思う。
https://clnakamura.com/blog/5044/
連載は終わったけれども、この編集者さんとは今でもちょくちょく連絡をとりあっている。神戸に来たときには一緒に食事をしたり。
その編集さんが、こんなプレゼントをくれた。

生コショウのオリーブ油漬け。食べてみると、うまい。辛いのでばくばく食べられるものではないけど、口の中で辛みがひくと、また食べたくなる。不思議と癖になる味。「そうか、コショウというのは、おいしいのか」と気付かされた。これは明らかに発見だった。コショウというのは、本来何か料理の上に振りかけるものでしょ。それでその料理の風味を引き立てる、あくまで脇役の存在だと、誰しもそう思ってる。でもこのコショウを食べれば、そうじゃないと気が付く。食ってうまいコショウ、そんなものがあるんだなと。

しかし考えてみれば、豆腐よう、カラスミ、生コショウ。全部酒のアテになるものばっかりやないか(笑)

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