コロナへの関心低下

暑い日は犬を連れて海に行く。ロンとツモが泳ぐのはもちろん、僕も一緒に泳いでいる。
今日はそこに字幕大王が合流した。講演会のために神戸に来ていたのだ。

左から字幕、僕、ツモ、ロン。

字幕が海にボールを投げて「とってこい!」遊びをしてくれた。
その後、一緒に昼食をとりながら、近況について話し合った。
「7月24日にデモをやったんだけど、参加者は100人ほど。これまでやったデモのなかで最も少ない参加者だった。参加者の数がコロナに対する関心の高さとそのまま相関していると思う。つまり、世間はもう冷めてきているんですね。コロナに対して。マスクやワクチンに対して」

そう、コロナの諸問題について、みんな関心がなくなってきました。
ワクチンについては、すでに国民の8割が打ってしまった。「打ったら危険!」なんて呼びかける段階はとっくに終わっている。
マスクについても、相変わらずこの炎天下のなかで誰も外そうとしない。「熱中症のリスクがありますよ。マスクを外しましょうよ」と散々呼びかけてきた。でも2年前と何ら変わっていない。

というか逆に、マスクプレッシャーはますます強くなっている雰囲気さえある。2年前は、マスクできない人への配慮というか、マスク着用を求めるにももう少し遠慮がちなところがあったけど、最近は容赦ない施設も増えて、マスクなしでは買い物さえできなくなった
たとえば、スポーツジムの利用の際にマスク着用を求められたら、ジムに行かなければいい。運動しないでも人は生きていけるから。新幹線や飛行機の乗車の際にマスク着用を求められたら、乗らなければいい。旅行や遠距離移動はぜいたく品で、生活に必須ではないから。
でも、スーパーで買い物する際にマスクの着用が義務付けられるというのは、生存権にかかわる問題で、明らかに一線を越えている。
これ、大問題だと思うんだけど、そうでもないのかな?受け入れるしかないのかな?

きのう、学会のあとの懇親会であるレストランに行ったら、入り口でマスク着用を求められた。「ああ、はい、分かりました」と言葉だけ素直に返して、未着用のまま入店したけれど(笑)
しかしアクリル板には参ったな。

向かいの人の話が聞こえにくい。向かいの人に乾杯のビールを注ぐこともできない。アクリル板にはしゃべったときの微細な唾やソースの飛沫が散って、不潔なことこの上ない。
これが感染症対策?バカにするのもいい加減にしろ
と思った。でも懇親会の和やかな空気を乱すのは無粋だから、そんなことは口に出して僕は言わないし、誰も言わない。みんな大人なんです。
誰も言わないせいで、店側もそんな”感染症対策”を改めない。延々コロナが収まらない原因の一端は、こういう茶番を受け入れてる僕ら自身にあるんでしょうね

すでに諸外国ではコロナは終わりつつある。1年前には、字幕は世界中の有志と連携して『世界同時デモ』を主催していたけれども、あちこちの国でコロナが収束していくなかで(収束というか、正確には「騒ぐことをやめた」だけ)、今だにコロナ騒動が盛り上がっているのは日本だけ。
世界はすでに気付いている。

「このワクチンキャンペーンは、医療史上最大のスキャンダルであり、人類に対する最大の犯罪として知られることになるだろう」
その通り。製薬会社、政府、マスコミがタッグを組んで推進した歴史に残る大虐殺に違いない。しかし、政府やマスコミの主導する公的なナラティブでは、「新型コロナウイルスで多くの人が亡くなった」ということになり、ワクチンの悪影響が語られることはないだろう。

実際、日本政府はいまだに臆面もなくワクチン接種を推進している。

しかし、僕は思うのだけれど、宣伝により新規のワクチン接種が進む段階は、もう終わったんじゃないかな。つまり、もう打つ人は打ったし、打たない人は打たない。そのふるい分けはほぼ完了したと思うんですね。
もちろん、ここにある種の強制性が加われば別ですよ。たとえば、高校生や大学生に対して「ワクチン打たないと受験を認めない」とか「部活の全国大会の参加にはワクチン接種済みであることが条件」とか、ある種の強制性を持たせれば、もっと接種が進むだろう。でも、「みなさん打ちましょうね」程度の軽い宣伝だけでは、打たない人は打たない。ネット情報とか口コミとかを通じてコロナワクチンの何たるかを知った人は、もう確信してますから。「あれはワクチンじゃなくて毒物だ」と
政府としては「コロナ感染者数が増えまくっている!」と危機感をあおって接種率の向上につなげたいところだけど、ターゲットである未接種者が賢くなっているものだから、宣伝しても届かないんですね。

字幕がデモに参加する人が減少していることを嘆いていたけれど、これはある意味すばらしいことじゃないかな。
実は、同じような変化を僕も感じていて、僕の記事のビュー数は、ここ1年で大幅に減りました。1年前、政府とマスコミが接種をバンバン進めていたときが僕のピークでした。しかし接種が進むにつれ(同時に、「自分は絶対に打たない」と決意する人が増えるにつれ)、僕の記事も読まれなくなりました。
「打たない」といったん決めた人の多くは、デモに参加したり僕の記事を読んだりしません。それは、彼らの中で、すでに「答え」が出た問題だから。「ワクチン?ああ、やばいやつでしょ。絶対打たないよ」と
たとえば、あのワクチンが、なぜ、どんなふうに危険なのか、そのあたりの作用機序にまで踏み込んで興味を持つ人は少数派です。多くの人はそんな情報を得ようとするよりも、YouTubeとかもっと楽しいことに時間を費やします。すごく健全なことです。若者はこうでなくてはいけません。

ワクチンの危険性に気付く人が増えて、SNSなどで声をあげる人も増えて、それで僕の影響力が相対的に低下して、記事のビューが減った、ということは当然あるでしょう。
心強いことです。自分の肩の荷がおりた感じです。1年前の僕は、妙に気負って肩肘張っていました。

ワクチンの特例承認取消を求める訴訟を起こしたにもかかわらず、この動きをどのマスコミも報じなかった。ただの一社でさえも、です。
こんなことがあるのか、と思いました。僕は震えました。本当に怖かった。
世間的には、「マスコミが報道しないものは存在しないのと同じ」なんです。ワクチンの危険性を訴える声は、こんなふうに潰されるのかと思いました。
明日、東京地裁に行ってきます。
恐らく、この訴訟の終了が宣告されます。マスコミが報じなかったのだから、世間的にはもともと存在しないも同然でしたが、裁判官により、正式に、公式に、その旨が宣言されます。
途中、木原弁護士、南出弁護士が政治活動を始めたこともあって、この裁判への支持が失われた面もあると思う。原告の大橋先生も補助参加人の鵜川さんも、この裁判に政治の色がつくことを懸念していました。
僕は、どんな形であれ、裁判経過を最後まで見届けようと思っていました。
とにかく、明日、ひとつの区切りです。

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