うつ病

【症例】40代男性
「大学で勤めてるんですけど、最近仕事への意欲がなくて。いや、仕事に対してというか、生きることに飽きている、と言ったほうが当たってるかな。もう、すべてに対して気力がなくて。だから休日はずっと寝ています。先月は週の半分は寝てました。
今コロナで授業はほとんとオンラインなんですけど、1時間目の授業とか起きれないんですよ。本来僕が学生の遅刻を咎める側でないといけないんですけどね。学生見てて思うんですよ。「こんな朝早くからよう勉強するわ」って。あべこべですね。
食生活ですか?朝は基本的に食べない。食べるぐらいなら寝る時間に回したい。仮に食べるとしても食パンを半分程度。そもそも朝はおなかが減ってないんです。昼はコンビニでパンを買うか、大学近くのラーメン屋で済ませることが多い。夜はまぁまぁそれなりに。パートナーが作ってくるものを食べています。
便通は便秘気味。週に2,3回くらいでしょうか。
睡眠は、朝はいつまで寝ても眠い。ずっと寝ていたい。でも夜の寝つきはまちまち。すっと寝つけるときもあれば、一晩中寝つけないときもある。
翌日が休みのときは、思いっきり寝る。夜10時に寝て、起きたら午後3時、みたいな感じです。

先生、ブログ読みましたけど、将棋するんですね。何段ですか?ああそうですか。
私ね、けっこう強いんですよ。高校生竜王目指してましたから。記憶力にはそれなりの自信があるほうなんです。でも最近ね、ひどいんです。学生の前で言葉が出ないんです。物忘れがひどくて。財布をどこに置いたか、分からなくなることさえあります。
博覧強記を自負していた私です。自分の指した棋譜を頭の中で再生することもできたのに、今や、10分前に置いた財布がどこにあるか分からなくなってる。自分で自分を笑っちゃいます。

人と接したくないんです。学生も含めて、です。だからできることなら家でじっとしていたい。でも仕事だから、授業は無理くり頑張ってやっています。
でも仕事は授業だけじゃありません。事前に授業資料を作らないといけないんですが、最近本当におかしくて、資料作成に以前の3倍かかります。作る意欲がわきません。すべてにおいてこんな具合です。何でもめんどくさいんです。
先月は誰とも連絡取りたくなくて、一切電話に出ませんでした。本当はこんなキャラじゃないんですよ。どっちかというと人前に出たくて、人とコミュニケーションしたいほうなのに。

この前ね、僕の書いた論文がある雑誌にアクセプトされたんです。インパクトファクターの高い雑誌です。でもね、自分でも不思議なくらい、全然うれしくないんです。うれしいどころか、その後の手続きがめんどくさくて、共著者に全部やらせました。というか、論文に採用されたこと自体、共著者からの連絡で知ったんです。でも、知らされても別にうれしくないし、「どうでもいい」としか思えなくて。
甘いもの?大好きですよ。食べだすと止まりません。何をするのもめんどくさいですが、チョコレートは買いに行きますし、カプチーノは自分でわざわざいれます。カプチーノは1日4杯飲みますよ。

実はね、ここは2軒目です。ここに来る前に別の病院に行って抗うつ薬を処方されました。でも全然合わなくて。逆に気分の揺らぎが激しくなって、不愉快なのでやめました。
自分の最高のパフォーマンスを10とすると、今いくつか?
10段階評価ですか?できません。マイナスですね。マイナス10、というところかな。

先生、私はね、ニューロサイエンスを専攻しています。psychiatryの論文を読むことも多いです。この無気力は側坐核の異常かな、なんて自分で思ったりします。薬物の作用機序の研究もしているので、先生、私にプラセボは効きませんよ(笑)」

なかなか手ごわそうな相手である(笑)
しかしプラセボというか、そもそも薬を処方する気はない。現病歴を聞いて「この人は必ずよくなる」と思った。僕が思っていたのは、どの程度スピードを重視しようか、というその一点だけ。すぐに治すべきか、じっくり治すべきか、その点を考えた。

まずは食事指導。甘いもの、小麦(パン、ラーメン)、乳製品をやめてもらう。頭のいい人だから「なぜ悪いのか」を説明すれば理解が得られるだろう。この人はそれだけで治ると思う。腸に刺激のあるグルテン、カゼインを控える。さらに甘いものをやめ血糖値の変動が少なくなれば、それだけで精神状態が安定するだろう。
しかし、そういう食事指導だけではこの患者は満足しない、という思いもあった。「プラセボは私に効きませんよ」と言っている。つまりこの人は、「精神科というのは、何かを飲ませるものなんだろう」というつもりでここに来ている。何かを飲ませるなら、何を飲ませるか。セントジョンズワートの出番である。

2週間後、再診時。
「甘いものも小麦も控えています。そうですね、気分のアップダウンは以前より楽になっています。
やってますよ、先生の言う通り。食事を変えたり、米中心にしたり、日光に当たったり。治ったわけではないけど、前よりはよくなっています。
自分の最高のパフォーマンスを10とすると、今いくつか?
うーん、4.5くらいでしょうか。半分まではいかないくらいです。それでも、改善の自覚はあります。以前は論文も読めませんでした。対面授業への拒否反応も前ほどはひどくありません」
よかった。よくなっている。
この時点で、液体マグネシウムの服用を勧める。まずいと感じる人が多いから、しょっぱなでは勧めにくい。いきなりこれを勧めると「何クソまずいもんを勧めるねん」と拒絶されて失敗することがある。でも今、ある程度の改善を自覚し、それなりの信頼関係ができたタイミングでなら、きちんと飲んでくれる可能性がある。

1か月後。
「年末年始、気持ちよく過ごせました。パートナーが食事にマグネシウムを入れたりします。そのおかげか、かなりいいです。もちろん、絶好調の自分が戻ったわけではありませんが、以前みたいにどん底になることはありません。たまに日中眠気を感じたりすることはありますが、改善しています。
自分の絶好調を10だとすると、今は7ぐらいかな。
私はね、人との駆け引きが好きなんです。先生、将棋するならわかると思うんですけど、将棋って駒を使った切り合いでしょう?駒は刀で、王様は心臓ですよ。人とのコミュニケーションもそんなところがあると思うんですね。人間のコミュニケーションって、峰打ちというか、刀の峰の部分で叩き合うようなもんでしょう?でも心が弱っていると、峰打ちでさえ、ぐったりしてしまう。前回の僕がそうでした。今はだいぶ持ち直したきたんです。会話の中に楽しさを見出すことができるようになってきました。
先生、そこ、将棋盤ありますよね。ちょっと一局やってみますか?」

秒で断ったんだけど(笑)、改善は伝わりました。
食事の改善、セントジョンズワート、マグネシウム。うつ病はこの辺でだいたい治る。もちろん、治らない場合もある。そうなると次の策を繰り出す必要があるけど、この人はここで治ってくれた。

患者と対局だなんて、こんな嫌なことってない。僕は案外負けず嫌いなのよ。だから勝負事は、基本、勝ちたい。でも患者に勝っても喜べないし、負けてもどんな顔をしたらいいのか分からない。だから、患者と勝負事なんて絶対にしない。
仮にするとしても、高校生竜王を目指していた有段者相手に勝てるはずがない。勝機があったとすれば、初診時のぐったりしていたときだろう。頭の回らない状態のときなら、勝てたかもしれない。しかし今対局すれば、負けることは見え透いている。
負かされた僕は、悔しまぎれに言うだろう。
「うむ、見事に改善したね。さすが僕の患者、僕の作品だ」と(笑)

タイトルとURLをコピーしました