産業医 冬季集中講座

今、神戸に帰って来た。帰って来たということは、どこかに行っていたということである。どこに行っていたのか。先週の火曜日から今日の午前中まで、北九州市にいた。
医者が、この時期に1週間、北九州市に行く。
このヒントだけで、同業者ならピンと来るだろう。
そう、産業医資格をとる集中講座に出席するために、北九州市にいたんだ。

この集中講座の募集人数に対して、何人の応募があるのか、知らない。まったくランダムに選ばれるのか、「この人、毎年応募してるけど落とされてるな。そろそろ拾ってあげないとかわいそうかな」という温情措置があるのか、知らない。ただ、「なかなか当たらない」というのが個人的な実感である。
毎年のように応募していたが、そのたびに「残念でした」の通知があるばかり。もう半分あきらめていて、今年も惰性で応募したら、なんと、当たったものだから、喜ぶよりも当惑してしまった。

産業医という資格が欲しかったのは、僕がnobodyだったからである。ただの精神科勤務医。医局や医師会のバックアップがあるわけでもない、ただの医者だった。もうちょっと、何かきちんとした肩書があって、それで仕事につながればいいな。そういう思いで、産業医をとるのも悪くないと思っていた。
でも今はそうではない。開業している。ありがたいことに、患者も来てくれる。ブログを書くのに忙しいし、暇があればロン(犬)と遊んでやりたい。
クリニックを1週間閉めて、参加費、旅費、ホテル代などを払う。経済的にはけっこうな打撃である。それだけのコストを費やしてわざわざ産業医資格を取りに行くメリットが、本当にあるのか?
『集中講座参加へのご案内』のメールを受け取ったあとになって、参加すべきかどうか、悩むことになってしまった。

考えた末、参加しよう、と思った。資格のメリットを重視して、ではない。もうそんな肩書に魅力を感じないし、産業医としての就活をしようとも思っていない。純粋に、勉強しに行こう、と思った。
誰かの授業を聞く、ということからずいぶん遠ざかっている。知識というのは、論文(あるいは目の前の患者)のなかから、取りに行くものだと思っている。そういうのが半ば習慣になった今、普通の勉強スタイル「机にじっと座っていれば目の前の講師が知識をとうとうと語ってくれる」感じって、どんなだろう。ありていに言えば、「もう一度学生に戻ってみたい」と思ったわけだ。
そういうわけで、一週間の授業を受けるにあたって、事前にひとつ、決めていたことがある。それは、授業をちゃんと聞こう、ということである。それなりのコスト(時間、金)をかけて参加するわけだから、授業中に寝たりしないで、学ぶべきことをきちんと吸収していこう、と思っていた。

しかし、この思いは挫折することになった。
午前9時から午後7時40分まで、がっつり授業があるわけだけど、体力的には問題ない。おもしろい授業ならいくらでも聞きたい。でも、残念ながらそうではなかった。
当然だけど、産業医を養成する授業なわけで、臨床医の目線で見た場合、総じて退屈だった。そういう退屈さに負けまいと少しでも興味深い要素を見つけようとして聴講したけど、あまりにもつまらない授業では、ついに禁を破って寝てしまった(笑)
ただ、逆に、めちゃくちゃにおもしろかった授業もある。こういうのは正規分布するのかもしれないね。上位と下位の数パーセントはすごくおもしろかったりつまらなかったりして、その他は可もなく不可もなく、みたいな。

学生時代の感覚を思い出した。
確かに、つまらない授業があった。それは、学生の未熟さゆえにその授業のおもしろさを理解できない、という面もあるだろうけど、講師の側が明らかに下手、という授業もある。細かい文字を詰め込んだスライドを小声で読んでるだけの授業は、聞く人を消耗させる。創造性とかクリエイティビティがどんどんすり減っていく気がして、頭の中で別のことを考え始める。ひどい授業って確かにあるんだ。
予備校なんかだと学生の評価が講師の死活問題に直結しているから、講師の側も授業の質の改善に必死になる。でも大学ではそういう淘汰圧が作用しない。大学で生きる人にとって重要なのは研究業績とか学内の政治であって、学生ウケなんてどうでもいい。だから、肩書だけは『教授』とか立派な先生でも、授業はびっくりするぐらいつまらなかったりする。研究者として一流の人が教育者としても一流かというと、全然そうじゃないんだな。

おもしろかった授業について話そう。そのおもしろさもいろいろなんだ。
まず、「今だから、この年齢だからわかるおもしろさ」。この集中講座の授業は、基本的に産業医科大学の学生相手にやってるのと同じ授業なわけ。つまり、本来ハタチ前後の学生さんが聞く授業なんだけど、「この授業を20歳のときに聞いたって、1ミリたりともおもしろさを理解できなかっただろうな」という授業がいくつかあった。臨床を経験したり法律の存在を意識したり、そういう実地経験なしに、たとえば労働安全衛生法の授業を聞いても、イメージしにくいと思う。

『産業保健の疫学』。講師の言葉が印象に残っている。「症例対症研究は有効な手法だけれども、バイアスの影響を受けやすいことは注意が必要です。たとえば、今、テレビで疫学者が『GO TOが原因でコロナが増えた』と言っています。これは典型的なリコールバイアスです。肺癌の診断がついた患者に「タバコを吸っていたことはありませんか」と聞けば「そういえば学生時代にちょろっと吸ったことが」みたいな言葉が出てきます。GO TOが原因でコロナが流行したと言いたいのなら、別の検証が必要です。安易にリコールバイアスに引きずられてはいけない。仮にも公衆衛生の専門家なら、この辺のことは本人も分かっていると思うのですが」
「ジョン・スノウは、微生物が病気を媒介することがまだ分かっていなかった時代に、disease mappingの手法を用いてコレラを収束させました。どういうことか?単純に、数えるんです。どこの家に住んでいた人がコレラを発症したか、ひたすら地図に記録していく。そうして、発症者の多くが、ある水道の利用者に集中していることを発見した。彼は当局に対してその水道の使用を禁止するようかけあいました。しかし無視されました。怒ったスノウは、なんと、その市の水道の元栓をぶっ壊しました。今なら器物損壊で逮捕ですね」
「地域相関研究は病気の原因を見つける上で、有効です。緯度と皮膚癌の関連、アルコール消費量と肝癌の関連はみなさんもご存知でしょう。あと、これは最近日本からの報告が多いのですが、日照量と消化器癌の関連もあります。ビタミンDが絡んでるんですね。しかしこの手法が万能かというとそうではありません。たとえばGDPの増加に伴って交通事故が増加します。しかしこの傾向を個人に落とし込んで、高所得者では交通事故が多いかというと、全然そうではありません。集団レベルのデータにもとづいた因果推論が、個人において成り立つとは限らない、ということです。これを生態学的錯誤といいます。
そこで、「病気の解明には集団よりも個人を見るべきだ。コホートだ。ゲノムだ」ということで個人を対象にした研究が一時活発になりましたが、この手法にも欠点があります。たとえば、個人レベルでは所得の増加に伴い慢性心疾患の死亡率が下がります。しかし国レベルではGDPの増加に伴い慢性心疾患の死亡率は上がります。個人レベルの因果推論が集団に必ずしも当てはまらない、ということで、これを個人的錯誤といいます。
つまり、集団でしか把握できないメカニズムもあれば、個人レベルでしか把握できないメカニズムもある、ということです」
おもしろい授業だった。こういう先生から疫学を学べる学生がうらやましい。

『職場における健康教育の技法』。おもしろい授業というか、はっきり、”技”を持った先生だった。
「はい、午後の授業。みなさん、退屈ですね。『さっさと授業終わらないかな』そう思っていますね。そして私は、話を聞く気がないみなさんに授業をしている。
実は私が今やっていることは、今後、みなさんが産業医になったときにやることです。産業医が診るのは、患者というか、労働者です。基本的に健康なんです。医者の話なんて聞く気がありません。会社から「HbA1cが7以上の人は行ってこい」と言われて、仕方なく私のところに来ているんです。私としては、自覚症状のない人に話を聞いてもらい行動変容を促さないといけないわけです。
聞く気がない人に、どう話を聞いてもらうか。この技術、知りたいと思いませんか」
授業を聞いてすぐに、この人はプロだ、と思った。それで講師の名前を検索したら、やはり、話し方やプレゼンの仕方について本を出したり講演会をしている人だった。
言うまでもなく、むちゃくちゃにおもしろい授業だった。人に何かを伝えるということ、教えるということがどういうことか、改めて考えるきっかけになった。

ひとつ、感想というか提案だけど、産業医大の教授は全員、まずこの先生の授業を受けたらどうだろう。教授になるぐらいだから、知識とか経験はすごいはずで、問題はその伝え方だろう。せっかく伝え方のプロが自分の大学にいるのだから、こういう人材を使わない手はないと思うよ。

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