母が死んで、当然悲しかったわけだけど、なぜ悲しいかといって、母がどこにもいなくなってしまったから。
晩年は癌で、実家のリビングにずっといた。
僕は県外で働いていたけど、「もし実家に帰ればいつもの定位置にいるだろう」と想像することができたし、実際帰省すると、そこにいた。
しかし、いまや、母はそこにいない。
そこどころか、世界中のどこにもいない。
僕にはこれが不思議だった。バカなことを言っていると思われるかもしれないけど、「人が死んだら、いなくなる」ということが、何だか妙に不思議だった。そして、息がつまるように悲しかった。
存在が、消滅する。
これが死ということか。
途方もなく重い気持ちになって、でも泣いたってどうにもならない。ただひたすら、悲しい。
でもしばらくして、僕は悲しさから解放された。母が、いなくなると同時に、あらゆるところにいるように思ったから。町ですれ違う誰とも知らない女のなかに、目の前にいる女性患者のなかに、抱く女のなかに、母の面影を感じるようになった。
もちろん言葉には出さない。ただ黙って、感じている。
大きな一枚鏡が割れて、その小さな破片が世界中のあちこちに散らばったようだ。
鏡の破片に女性性のきらめきが一瞬映り込んで、そこに僕は、母の姿を見出す。
どこにもいなくなるということは、あらゆるところに存在するということだ。
死という虚無が、普遍に通じているということを、母の死を経て強く感じるようになった。ゼロと無限大がほとんど隣り合わせだということは、ちょっとした発見だった。

当直の仕事をしていて、死亡確認をするときがある。
心停止、呼吸停止、瞳孔反射の消失。
死の三兆を確認した。時計を見る。
「午後11時47分、死亡を確認しました」とご家族に伝える。
はたからは堂々と振舞っているように見えるだろうけど、こっちはけっこう緊張している。
慣れない。
慣れてはいけない、とも思う。
まだ亡くなって間もないときだと、聴診器を当てているときに体温を感じることがある。心臓も呼吸も確かに止まっているけど、まだぬくもりがある人を、「死亡」と宣言するのはなかなか勇気がいることだ。
こういうとき、やっぱり理論が役に立つ。「僕が判断するんじゃない。理論が判断しているんだ。心臓と呼吸が止まり、瞳孔反射がない状態が死の定義であって、体温の有無は生死の基準と無関係だ」と自分に言い聞かせる。
個人的には、死の兆候が最も早く、最も特徴的に現れるのは、目ではないかと思う。
死ぬと、全身の循環が止まる。目も例外ではなくて、生きている人では常に涙液が産生されていて、目の乾燥を防いでいる。だから、死亡確認のために目を開けるとき、亡くなっている人の目は、乾燥でニチャッとする。涙液の産生が止まっているから、すでに目にうるおいがないのだ。
瞳孔反射の消失、対光反射の消失、角膜表面の乾燥など、目が与えてくれる情報は多い。「死人に口なし」かもしれないが、「死者の目は口ほどにものを言う」というのも真理だと思う。
あと、さりげなく鼻を触ると、すでに冷たいことも判断の一助になる。末梢だから冷たくなるのが早いんだ。

90代の女性の死亡を確認し、ご家族に死を告げた。
告げた瞬間、60代くらいの息子さんが、「あはー!」と大きな声をあげた。僕は最初、それを笑い声だと思った。それぐらい素っ頓狂な声だったから。
しかし息子さん、声をあげると同時に、母の亡骸に抱きついて、ものすごい勢いで泣き始めた。
僕はその様子をそばでじっと見ていた。
見ているうちに、僕も泣きそうになった。
自分の母が死んだときのことを思い出した。僕もこの人と同じように、母の遺体に抱きついて泣いたから。
男はみんな知っていることだけど、女性諸君は知っていますか。
30代だろうが60代だろうが、男はいくつになってもマザコンみたいなもので、大事な母ちゃんが亡くなったら、こんなふうに泣くんだよ。

https://clnakamura.com/blog/2902/

上記は僕の過去記事なんだけど、こんなふうに過去記事をちょくちょく紹介していこうかなって思ってるんですね。
これは先日福岡で講演したとき、その後の懇親会がきっかけです。鍋物を食べながら、隣の女性が言うわけです。
「先生、さすがお医者さんですね。文章が上手なのでコロナの問題点がよく分かります。おかげで私もワクチンを打たずに済みました」
すると、僕の向かい側に座っている男性がすばやく異を唱えた。この人は北九州市の某病院で勤務する医師で、僕のブログを、多分、全部読んでいる。「ちょっと待って。医者だから文章が上手、ではありません。中村先生は特殊です。そこは勘違いしないで」
適切なツッコミをありがとう(笑)
そう、僕はいろんな意味で特殊だと思います。もともと文学部出身で、医者になるつもりなんてさらさらなかった。数学とか理系学問も好きだったから再受験で医学部に入れたけど、別に医者になることを一直線に目指していたわけじゃない。
この向かい側に座った先生、僕のブログのことを、ある意味僕以上によく知っている。それで言うわけです。「先生、はっきり言いますけど、コロナ禍に入ってからの記事よりも、昔の院長ブログのほうがいい文章が多いですよ」と。さらに、「本にしたらいいんじゃないですか。『ネット上で自由に読めるように公開してます。ご自由にクリックしてください』というだけでは、誰も読まないですよ。本という、手にとれる形にして初めて届く人というのはいると思うんですけど」
ありがたい。これは一見、批判のようにもとれる言葉なんですね。とりようによっては「今の記事、おもしろくないぞ」と言っているわけだから。でも僕はうれしかった。5年前に書いた記事なんて誰も読まない。でも、この人は読んでいる。それで「今の記事よりもいい」と言ってくれてる。これって最高の誉め言葉ですよ。
それはそうだと思う。
5年前、当院は閑古鳥でした。ろくに患者なんて来ない。でもそのおかげで、ブログに存分に時間を注ぐことができました。恐らく、5年前に書いたブログはどれも、文字数が今より少ないです。はっきり調べてないけど、最近の記事はだいたい4000文字前後、でも昔の記事は2000文字前後が多いと思う。なぜこうなるのか?

パスカルがこんなことを言っている。
「時間がなくてこんなに長い文章になってしまって申し訳ない。短く書くだけの時間がなかったんです」

そう、僕は幸か不幸か、忙しくなってしまいました。診察は2か月先まで予約が埋まっています。休日は講演とか家族サービスが優先なので、自分のための時間はとれない。
こんな状況でありながら、情報発信をしようとすると、どうなるか?「時間がないから文章が短くなる」のではありません。逆で、文章が長くなります。言葉を選ばないからです。理想的には、深い1だけを話して、読者はその1をもとにして10まで想像を広げてくれればいい。でもそういうポエムな表現は、時間があるからできることなんです。今はそんな文章は書けなくて、自分の言葉で説明を尽くそうとする。10を伝えたいなら、10を自分の言葉で伝えようとする。これって文章としては下品になります。感じる余韻がない、読者に想像の余地を残さない、みたいな。
このへんの呼吸は日本人ならみんなわかるんじゃない?なんといっても、この国は、五七五とか五七五七七とかで言いたいことを済ませるという驚異の表現形式がある。その気になれば、17文字で言いたいことを言えちゃうわけ。でもこの17文字をひねり出すのに、どれほどの時間と才能、エネルギーを必要としたかって、ことだよね。
僕は今、3千文字とか4千文字もかけないと自分の言いたいことを表現できない。患者数が増えて、文字数が増えた。表現者としての僕は、明らかに退歩しています。俳句とか短歌の文字数はハードルきつ過ぎるとして、しかしエッセーだとしても、4000文字は多すぎる。本当へたくそになった。酒で脳が萎縮してるってこともあるんやろか。
「高齢になるにつれて話が長くなる」という傾向が知られている。30代の係長の話よりも50代の部長の話のほうが長い。加齢にともなって話を短くまとめられなくなるという、老化の影響もあると思う。
もちろん、もっと時間があればというところはあるけど、女房子供ができて、患者が来てくれてさ、こればっかりは仕方ないよね。

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