ちょっと前に續池さんと話す機会があった。
「子供さん、お元気ですか?」
元気過ぎて困るくらい元気ですよ。
「生まれてどれぐらいになりますか?」
今ちょうど5か月です。
「かわいいですか?」
それはもう、もちろん!子供がこんなにかわいいとは思いませんでした。自分の子は格別ですね。
「これからもっとかわいくなりますよ」
え、すでに最上級にかわいいんですけど、まだこの上があるんですか?
「あります。今中村さんが感じているかわいさの、その10倍かわいくなりますよ」
續池さんは4人の子供の父親である。一番上の子は小学校高学年、一番下の子は幼稚園だというから、まだまだ子育て真っ最中だ。赤ちゃんが成長して「子供」になっていく過程を4人分観察した、その續池さんが言っている。「赤ちゃんは今の10倍かわいくなりますよ」と。
これは分かる気がする。
生まれたての赤ちゃんは、初めて我が子を抱っこした感動はあったけれど、いわゆる「かわいい」という形容は当たらない気がした。生まれたては、もっと生々しくて、もっとグロテスクだと思った(そして、そのグロテスクさえ愛おしいと思った)。それは決して、世間で言い古されているところの「かわいい」ではなかった。でも言葉が他にないものだから、とりあえず「かわいい」と言っておいたけれども。
世間でいうところの、いわゆる「かわいい」を我が子に感じ始めたのは、笑顔を見せ始めた頃じゃないかな。僕の姿を見たり話しかけたりすると、笑う。そのときに初めて僕はこの子をかわいいと思った気がする。寝返りを打ったり、僕の指をその小さな手でぎゅっと握るようになった。喃語(ダーダー、アウアウ)をしゃべるようになったり、ハイハイを始めたり(そう、うちの子は生後5か月なのにハイハイをしています)。毎日できることが増えていく。毎日大きくなっていく。なんてかわいい子だろう。自分の持てるものをすべてこの子につぎ込んでやりたい。
休みの日にはできるだけこの子と過ごしたい。この子を見ると僕も自然と笑顔になる。僕の笑顔を見てこの子も笑顔になる。この子の笑顔を見て僕はますます笑顔になる。笑顔の循環。なるほど、こんなふうにして赤ちゃんは世界に笑顔を広げるんだね。
赤ちゃんは人の顔が好きなんだと気付いた(乳幼児を持つ親は絶対にマスクしてはいけない)。一緒にいるといつも僕の顔を覗き込んでくる。視線をしっかり受け止めよう。スマホが気になるけど、我慢我慢。赤ちゃんから目をそらしてスマホの画面を見つめている姿をこの子に見せたくない。やせ我慢だけど、せめてスマホではなく本を読んでいる姿を見せたい。そう、カッコつけてるんだよ。昔ならいざ知らず、最近は本なんてろくに読まないくせにね。それでも、そういう姿を見せたいって思うんだ。半分スマホ中毒みたいになってるくせに、「こうなっちゃいけないんだよ」って頑張ろうとする。ああ、そうか、この子がいるから、僕は親になろうとするんだな。
病院の会計は嫁まかせだから自分がいくら稼いでるのかは知らない。でも、それなりの稼ぎはあると思う。こうちゃんよ、金は全部、お前が持って行ってくれてかまわない。将来何か習い事がやりたいといえば、なんでもやるといい。ピアノでも水泳でも塾でも、何でもいい。僕の家柄じゃないけど、バイオリンとかフィギアスケートとかゴルフとか、やりたいならなんでもどうぞ。僕は喜んで費用を払うと思う。払ってあげたいんだよ。僕にできることがあるなら、金でできることがあるなら、何でもやってあげたい。
「親不孝者め!誰がお前を育ててやったと思ってるんだ!」みたいなフレーズで子供に説教する親がいる。あり得ない。「育ててやった」って何ですか?逆でしょ。子供を育てていて、こんなに楽しいことってないじゃないか。「子供のときに育ててやった」んだから「言うことを聞け」とか「老後をよろしく頼む」とか、寒すぎる。意味が分からない。give and takeなわけがない。子育てはgive and giveでしょ。とにかくひたすら与えまくるものだし、子供からの見返りなんてそもそも念頭にない。ただ自分の持てるものをこの子に注いであげるのが楽しくて仕方ない。愛を与えたいのはもちろんだし、金でできることがあるのならしてあげたい。
僕はようやく、世の父親の気持ちが分かりました。
子供のためによりよい日本にしないといけない。僕はやっと”当事者”になれました。
赤ちゃんのかわいさの研究。人はなぜ、赤ちゃんをかわいいと思うのか。この問いに最初に取り組んだのは、コンラッド・ローレンツ(Konrad Lorenz)でした。彼は80年ほど前に、人間がある種の特徴に対して「かわいい」と感じることを発見し、これをBaby schema(ベビースキーマ)と名付けました。以後、「かわいさ」(cuteness)の研究が飛躍的に進みました。
日本人赤ちゃんの「かわいい」の研究
まず、赤ちゃんの顔写真を80人分集めます。それで日本人男女200人(20~69歳)に、それらの顔写真のかわいさを7段階で評価してもらう(「最高にかわいい」を7点、「ブサイク」を1点)。そして、得点上位の10人と下位10人を選び、それぞれの10人から顔を合成して「典型的なかわいい顔」と「そうではない顔」を作った。
みなさん、左、右、どちらが「かわいい」と思いますか。日本人587人に聞いたところ、9割が左を「かわいい」と回答しました。
ここから言えることは、かわいさに客観的な特徴が存在する、ということである。(なお、若い男性は女性や中高年男性と比べて、右を選んだ人の割合が比較的多かった)。
今後、ロボット工学の進歩に伴い、赤ちゃんを模したAIが登場する。そのとき、上記の研究を踏まえて、赤ちゃんロボットの顔は大人の心を刺激する「かわいさ」を備えているはずです。
おもしろい知見だとは思うけど、同時に、ズレているとも思います。日本人男女200人が「全然かわいくない」と評価した赤ちゃんであっても、その子が我が子なら、「かわいい」に決まっている。上記の研究が「分かってないな」と思うのは、赤ちゃんのかわいさというのは笑顔のことだよ。いや、これは赤ちゃんに限らないと思う。整った顔立ちであっても、笑わない美女の顔は冷たい。多少ブサイクであっても、一緒に笑いあえる人の顔は最高にかわいい。こんなの偉い学者が研究するまでもなく当たり前だよね?
かわいさということでいうと、うちの犬もかわいいです。子犬のときにかわいかったのはもちろんだけど、成犬になった今だってかわいい。
ロン(2歳8か月)とツモ(1歳)の兄弟だけど、ロンは赤ちゃんにそんなに関心がないけど、ツモは赤ちゃんのことが大好きで顔をよくなめる。
ロンとツモ、同じ犬種で兄弟(腹違い)だけど、性格が全然違う。ロンはツンデレ、人に対してそんなに愛想をふりまかないけど、ツモは超社交的。身体能力でいうと、最初は当然ロンが上だったけれども、1年経って逆転した。走るのも泳ぐのも、ツモのほうが上回った。ボールを投げて「取ってこい!」と言えば、だいたい8割方、ツモがボールを持ってくる。ダッシュ力、ぶつかり合ったときのフィジカル、持久力。あらゆる点でツモのほうが優れてる。
ただ唯一、まだロンが勝っているのは、頭の良さです。
先月行われた警察犬協会主催の大会で、ロンはなんと、『服従』部門でチャンピオンになってしまった。
優勝してこの表情。明らかに、分かっている(笑)
こうちゃんの成長が早いのも、ロンの頭がいいのも、ゲルマニウムのおかげだろうなぁ。
あと、ツモがおもしろいのは、どうも霊感があるらしいこと。
深夜にひとり、僕はクリニックでこうやってパソコンに向かってブログを書いているわけだけど、CDデッキがいきなり起動して音楽が鳴ることがある。初めてこの現象に出くわしたときは、「上の階の人が音楽を聴いてるのかな」と思ったけど、違った。誰も触ってない、電源を切っているはずのCDデッキが勝手に起動していた。文章を書くことに集中しているものだから、怖いという感情は全然なくて、「うるさいのー、邪魔せんといてくれ」という感じで、CDのコンセントを抜く。そしたら、さすがにCDは鳴り止んだ。
ある休日、ロンとツモをクリニックに連れて行ったら、ツモが室内の一角に向かって、狂ったみたいに吠え声をあげる。そのうち鳴き止むと思ったけど、1分経っても2分経っても吠え続けてるから、「おい、うるさい。もうええぞ」と頭をなでてやると、いったん鳴き止んだ。それでもしばらくすると、またその一角に向かって吠え始めた。それがCDのある辺りなんですね。うーん、何だろう。犬にだけ見える何かがあるのか、と思うんだけど、吠えるのはツモだけで、ロンは何も気にせず寝ていたりする。
こういうことはよくある。家でも、ツモが見えない何かに向かって猛烈に吠えていることがある。蚊とかハエとかに吠えてる?いや、それはない。蚊やハエは小さすぎてよく見えてない。認識したとしても、虫相手には吠えない。
結局、よく分からない。多分、霊的な何かに対して吠えてるんだろうな、という気がしてるんだけど。
昔書いた記事で、霊的な現象について考察したことがある。
『見えないもの6』https://clnakamura.com/blog/6116/
臨床現場で原因がよく分からない症状に出くわすことはざらにあって、そのうちの何割かは、ひょっとしたら霊障じゃないかな、とふと思うことがある。
おばけのQ太郎は犬が苦手っていう設定だけど、これは、いわゆる”見える人”に言わせると本当にそうみたい。霊は犬が苦手らしいんだ。上記著書(橋本和哉著)にも同様の記載がある。
ツモがわざわざ”お祓い”をしてくれてるのかもしれないね。
ロンツモに向かい合うスタンスは、こうちゃんに対してと同じです。つまり、give and giveってこと。「休日はどこに散歩に連れて行ってあげたら喜ぶかな」「このボールで『持ってこい』をすればきっとテンション上がるだろうな」とか考える。見返りなんて期待するはずがない。ロンツモがそばにいてくれる、ただそれだけで、かわいくて癒される。
そう、見返りなんて期待してないのに、何かものすごく大きな恩返しを、僕の目に見えない形でやってくれてるような気がするんだよね。