勤務医時代のこと。あるカンファレンスで「ビタミンCには有害金属、たとえば鉛をデトックスする作用がありますから」と僕がいうと、指導医がすぐ割って入って「君、あのね、デトックスなんていう医学用語はないから」
「あ、はい、すいません」と反射的に謝っておいて、「ビタミンCがある種のキレート作用を発揮して」と言い直すと、特に訂正されず、僕はそのまま話を続けることができた。
もう何年も前の話。なぜこんなつまらないやりとりが記憶に残っているのだろう。
指導医は僕に苛立っていた。僕は「やたらとビタミンを使いたがる医者」ということで、職場で明らかに浮いていて、僕のスタイルを快く思わない先生もいた。というか、そういう先生が大半だったと思う。僕に対する不快感を表明する切り口、それが僕の「デトックス」だった。
なるほど、デトックスという言葉にはずいぶん手垢がついている。科学的根拠があるのかないのか、「このサプリで放射能をデトックス!」みたいなフレーズが健康食品業界で使われすぎたせいかもしれない。
しかし本当だろうか。本当に「デトックス」は医学用語ではないのか?何でもいいけど、たとえばこんな論文がある。『ヒツジ肝臓におけるアンモニアの解毒(detoxification)』
つまり、デトキシフィケーションは論文にも使われる由緒ある医学用語。デトックスはこの短縮形。だから医学用語だと言って全然差し支えないと思うのだが。
あのカンファレンスの場で、僕が「デトキシフィケーション」と言っていたら、指導医は満足しただろうか。
いや、もちろん満足しない。いじめるための揚げ足取りなんだから、きっかけさえあればどこにでも噛みついてくる。
この指導医、僕が受け持ち患者の説明をしているときに言った「ビタミンCは免疫力を上げてくれます」というフレーズが引っかかった。
「免疫力を上げるって?」
「腸管から吸収されて血中を流れるビタミンCを白血球が取り込みます。そうすると白血球の貪食能が増し、結果、細菌などの病原体に対する貪食能も増します。そういう意味で、免疫力が上がる、と言いました」
「わかるってるよ、そんなことは!そもそも”免疫力”なんて医学用語はないって言っている。不正確だよ。
たとえばインフルエンザで発熱症状を来たしている患者がいるとして、この人、免疫系が低下していると思う?むしろ逆でしょ。サイトカインが分泌されて免疫系が活性化してるよね?君のいう”免疫力が上がる”はこれとどう違うの?」
「すいません」
「いや、すいませんじゃ困るんだよ!もっと勉強しろよ」
なるほど、確かに。指摘の通りで、免疫力という医学用語はないかもしれない。
でもいいじゃないの、別に。分かりやすいんだから。
免疫という言葉は、多分、immuneの翻訳として明治くらいに作られたんじゃないかな。immuneを「免疫力がある」って訳しても、別にバチは当たらないだろうに。
でも、こんなことはもちろん言い返さない。ただ黙って、パワハラを耐え忍ぶ。
腹が立つけど、まったくデタラメな難癖というわけでもない。相手も医者だから、それなりに頭はいい。IQの低いバカみたいないじめ方はしてこない。この次はどういうふうに噛みついてくるだろう。僕はなかば好戦的な、待ちもうける気持ちになっていた。
だから、あるミーティングの場で、「ある病気への免疫をつけることを意図して接種される予防接種ですが、副作用として自己免疫疾患が起こることもあり得ます」という僕の言葉に対して、「副作用ね。副反応って言いたいのかな」と指導医が言ったときには、何だかガッカリしてしまった。あまりにも子供じみた指摘だったから。
副作用(side effect)、副反応(side reaction)、有害事象(adverse event)。細かい使い分けはあるのかもしれない。でもそんなもん知らん。どれも同じようなもんでしょうが。
開業医になった今、僕は自由になった。僕の言葉尻を捕らえて難癖をつけてくる上司はもういない。ストレスからの解放には違いない。堂々と”デトックス”と言えるし、”免疫力”と言ってもツッコミをいれる患者なんていないし、副作用でも副反応でもどうでもいいと思っている。
だけど不思議なもので、そういう人間関係のいざこざから完全に離れた今になってみると、ああいうパワハラでさえ、何だかなつかしいような気持ちになる。言葉の揚げ足をとろうとして僕の言葉に淡々と耳を澄ます意地汚い性格丸出しの指導医だったけど、今の僕の言葉を、あれほどの熱量を持って聞こうとする人間はいない。
刺激に飢えてるみたいで、何かやばいな笑