50代男性
「先生のnoteは拝見しています。ワクチンの危険性については分かっているつもりです。ただ、一企業の社長として、「私は打ちません」では済まないようなところがあるんですね。社長であり、かつ、営業も私がメインでやっているのですが、「接種していない人とは商談しない」という会社もありますから。
妻も子供もすでにワクチン接種済みです。「あなた、まだ打ってないの?いつ打つの?」という感じです。
世間は、そういう具合なんです。仕方がありません。
私も腹を決めて、接種の予約をしました。そんなときに、つい先日の先生のnoteです。ワクチンの解毒法の研究をされているとのことで、「ぜひ協力したい」と思いました。「同じ打つとしても、自分のデータが役に立つのなら」と。
接種後、数時間で死亡する人がいることは知っています。数時間どころか、接種会場で亡くなった人がいることも。自分が打って死亡したとしても、そういう運命なのかな、と思っている節があります。
矛盾していると思われますか?
いや、それが不思議なもので、自分の中では別に矛盾してるとは思わないんですね」
本人は「目覚めている」。このワクチンの効果を信じてないし、そもそも「感染症予防のために打つ」などという認識ではない。打つのは、社会的体裁のためだ。いわば、「よりよく生きる」ために打つ。
しかし、仮に打って死亡したとしても、そのときはそのときかな、という妙な諦念も自分の中に同居している。
生きることに固執しているかと思えば、意外にあっさり、生を手放すようなところもあって。
僕はこのあたりに、すごく日本的なものを感じる。欧米のSNSを長らくフォローしてるけど、こういう感性って欧米人からは感じない。
覚醒組でありながら、ワクチンを接種する。こういう心境でワクチン接種に臨む日本人って、案外多いんじゃないかな。
20代女性
「彼氏がもうすぐワクチンを打ちます。私が接種に反対していることは伝えていますが、立場上、どうしても打たないといけません。
「打つなら松葉茶を飲んで」とか「ビタミンDや亜鉛がいいよ」と勧めると、抵抗もなく受け入れてくれます。優しい人なんです。
でも、私はやっぱり、打って欲しくありません。接種した人からスパイクタンパクとか妙な物質が出ているって話もあるから。それできのう、思い切って言いました。「もし打つなら、少し会わない期間を置きたい」と。もっと踏み込んで、「キスやセックスもしたくない」とも。
険悪な空気が流れましたが、彼は「それでも会える日が来るまで待つ」と言ってくれました。
そこで、先生にお伺いしたいのは、接種済みの彼氏と今まで通りにお付き合いするために、何かできることはありませんか?どうしたらこの不安を取り除けますか?このまま引き裂かれるのは悲しいです」
これは彼女、つらいね。できることなら、泣きわめいてでも止めたい。「私とワクチン、どっちをとるの?」と叫びたい。それで彼氏が「そこまで俺のことを思ってくれてたんだね。心配かけてすまなかった。ワクチンは打たないよ」と言って欲しい。
でも、彼女も大人だから、そんなふうに感情むき出しにすることはしない。泣いたってわめいたって、打つことが必要なら、打つ。そういうのが社会人なのだということを、彼女も分かっている。
だとすれば、何らかの方法はないか?ワクチンの毒性を無力化するような、解毒法や対処法がないものか?
でも、これは僕に聞かれても困ります(笑)答えが知りたいのは僕のほうだよ。
ただ、話を聞いていて、胸が痛んだ。こんなふうにして、社会の分断が進んでいくのだと思う。ワクチンの危険性を分かっている人もいれば、分かっていない人もいる。しかも、分かっていてなお、打つことを選ぶ人もいる。
そういうのが恋愛に影響を及ぼさないわけがない。今、ワクチンをきっかけにして引き裂かれるロミオとジュリエットは、世界中にいると思う。
50代男性
「先生、ワクチンを打つ人の気持ちって、想像したことがありますか?『気持ちも何も、マスコミに洗脳された被害者であって、自分の頭で何も考えていないだろう』、と言えばそうなのかもしれません。でも、それだけではないと思うんですね。
私の父、もう84歳なんですが、ワクチンを打ちました。さんざん説得したんですが、ダメでした。認知機能が衰えているわけではありません。頭は私よりもしっかりしているぐらいです(笑)
ワクチンで多くの人が死んでいる。死亡以外にも様々な副作用が出る。絶対打ったらダメだよ。
そういう具合に、言葉を尽くして説明しました。先生の記者会見の動画も見せました。「そうか、体に悪いんやな。ちょっと考え直すわ」と言ってて、理解してくれたと思っていました。
でも先日久しぶりに会ったら、もう2回目の接種を済ませた後でした。ショックでした。やっぱり分かってくれなかったか、と。
一体何を考えているんだろう、と思いました。死亡のリスクがあるワクチンであることは重々理解している。それでも、打った。どういう気持ちなんだろうか、と。
父は健康です。もちろん、年齢相応の衰えはありますが、同年代の人に比べれば全然元気なほうだと思います。5年前母に先立たれたときには、ずいぶんへこんでいましたが、立ち直って、ゲートボールとか読書とか、町内会の老人仲間との交流とか、人生を楽しんでいるように見えました。
それなのに、なぜ打ったのか?
そろそろ潮時かな、と思ったと思うんです。
「人生には意味がある」とか「生きることは絶対的な善である」とか、世間的にはなんとなくそういうことになっていますけど、80代の老人の心境って、必ずしもそうじゃないように思います。
人生、一通りやりきった。幸い健康だけど、それほど楽しいわけじゃない。かといって自殺するほどつらいこともない。一応毎日生きてるけど、いつお迎えが来てもいい、みたいな気持ちで毎日を過ごしている。そんなときに、ワクチンの接種案内が役所から届いた。町内会の立場上、当然打ったほうがいい。「みんながかからないために打った」と言えたほうが、大きな顔ができる。私は「死亡のリスクがあるワクチンだから打つな」と言ったけど、これはむしろ逆効果だったかもしれない。ワクチンを打つという社会への面目を保ちながら、かつ、仮に死んだとすれば、実は父にとって、これほど都合のいいことはない。退屈な人生からきれいに幕引きができるわけですから。姥捨て山を実践しているようなところがあるのかもしれません」
これもすごい話だね。
50代の息子さんには、80代のお父さんの気持ちが分かっていなかった。でも、だからといって、どうすればよかったのか?
たとえば、「わしがいなかったらこの家はダメになる」みたいな使命感とか危機感があれば、死亡リスクのあるワクチンなんて打ってる場合じゃないから、打たなかったと思う。
でも幸か不幸か、悠々自適の老後で、そういう平和な毎日にうんざりしてしまったんだね。
ワクチンを通じて、人生の悲哀とか人間の悲喜こもごもが垣間見えるものだね。